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石川県教育文化財団創設者
異色の経済人 竹多 為治
竹多為治は明治三十五年三月二日、北前船の湊町、石川県白山市美川町
に生まれた。先祖は加賀本吉(美川)随一の北前船の船主、紺屋三郎兵
衛であり、竹多姓は加賀藩主が紺屋三郎兵衛の屋敷を訪れた折り「竹多」
の名字を許されたと聞く。
為治の祖父、為三郎は七代目三郎兵衛の長男だが、新たに家を興して紺
屋の分家になった。父は柳三郎、母はタミ。十人兄弟の中、成人したのは兄、
弟、妹の四人である。
小学校・中学校時代
為治は美川小学校、小松中学校を通じて成績は優秀であった。小学時代、県
庁を訪れた皇太子(後の大正天皇)の御前で「書」を書いた。「書」は性格を
現し、自由闊達だった。小松中学時代は早稲田大学に進学して野球部入部を
夢見たが、かなわず上京。
代議士の書生にもぐり込んだ。
そんな為治を案じた父は、県立金沢商業学校で三年生への編入試験で合格した彼は同校でも「弱きを助け、強きを挫く」名物大将に
なった。
大陸へ
為治は成績二番で卒業し、満州の鈴木商店に就職を決めるが、満州に出発する頃は業績が下降線。不安を感じた彼は釜山で、小松出身の越田三井物産釜山支店長と同会社勤務の叔父に相談に、釜山のコノミ商会に就職した。
彼は生来の負けん気と利発さで仕事を覚えた。同商会が朝鮮半島の仁川に出張所を開設する時は、入社半年余りの為治が中心になって準備を進めるほど優秀だった。
為治が結婚したのは昭和元年。彼は二十四歳、小堀ツヤ子十八歳だった。それから三年後、為治は独立を目指し、米豆取引所取引員の資格取得。だが、取引許可を受けるには保証金二万円(今の数千万円)が必要だった。
彼は父に協力を求めた。息子の性格を知る父は申請名義を自分にし、資金を出資した。
彼は生来の負けん気と利発さで仕事を覚えた。同商会が朝鮮半島の仁川に出張所を開設する時は、入社半年余りの為治が中心になって準備を進めるほど優秀だった。
為治が結婚したのは昭和元年。彼は二十四歳、小堀ツヤ子十八歳だった。それから三年後、為治は独立を目指し、米豆取引所取引員の資格取得。だが、取引許可を受けるには保証金二万円(今の数千万円)が必要だった。
彼は父に協力を求めた。息子の性格を知る父は申請名義を自分にし、資金を出資した。
為治の独立・竹多商店
為治の開店は四年二月一日、従業員は十数人。仁川の米豆取引所は東京、大阪に次ぐ規模で、取引員の資格を持った店は十店だった。
為治が勝負をかけたのは、朝鮮随一の加藤精米所で、何万石もの米を売った。月末までに米を渡さなければならない。
彼は朝鮮各地で買い付けた米が仁川の港に入荷するか、社員に入荷状況を逐一電話で報告させ、どうにか引き渡した。それは各地の情報をもとに品物を安く仕入れ、高く売り、その差額を利益とする北前船交易そのものだった。 九年、後に天才詐欺師と言われた伊藤ハンニに、為治は株の買い占めを依頼され、その代金を払わず、遁走され、百万円(今の十数億円)の借金を背負わされた。倒産すれば一生かかっても払えない金額である。
そんな彼に資金援助をしたのが、大正時代に一世を風靡した相場師、石井定七と、後に山種証券の創始者となる山崎種二である。お陰で、竹多商店は息を吹き返し、借金を完済、逆に信用を得た。
十二年、日本は日中戦争に突入。翌年、米や穀物が統制品になり、取引所は閉鎖。為治は個人投資家となり、ソウル証券取引所に通い、ソウルに新居を新築した十四年、父が死亡、翌年、兄も亡くなった
彼は朝鮮各地で買い付けた米が仁川の港に入荷するか、社員に入荷状況を逐一電話で報告させ、どうにか引き渡した。それは各地の情報をもとに品物を安く仕入れ、高く売り、その差額を利益とする北前船交易そのものだった。 九年、後に天才詐欺師と言われた伊藤ハンニに、為治は株の買い占めを依頼され、その代金を払わず、遁走され、百万円(今の十数億円)の借金を背負わされた。倒産すれば一生かかっても払えない金額である。
そんな彼に資金援助をしたのが、大正時代に一世を風靡した相場師、石井定七と、後に山種証券の創始者となる山崎種二である。お陰で、竹多商店は息を吹き返し、借金を完済、逆に信用を得た。
十二年、日本は日中戦争に突入。翌年、米や穀物が統制品になり、取引所は閉鎖。為治は個人投資家となり、ソウル証券取引所に通い、ソウルに新居を新築した十四年、父が死亡、翌年、兄も亡くなった
実業家として・撚糸業
残された母や兄の幼い三人の子供を案じ、為治は妻と長男の正介、次男の統介を連れて昭和十六年、美川町に帰国。商業学校時代の中野が専務をしている大日本機械工業の顧問になった。
終戦で朝鮮に残した財産を失った為治は、商業学校時代の仲間三人で撚糸業を始めた。戦時中軍用工場だった志賀町高浜工場を買い取り、織機百台を購入した。やがて、会社は空前のガチャマン景気に湧いた。
また、日本レーヨン(今のユニチカ)に工場誘致の話を持ちかけ、羽咋に織機百五十台の工場を建設。工場は本社の専務が社長になり、為治は専務に就任、運営を任された。
終戦で朝鮮に残した財産を失った為治は、商業学校時代の仲間三人で撚糸業を始めた。戦時中軍用工場だった志賀町高浜工場を買い取り、織機百台を購入した。やがて、会社は空前のガチャマン景気に湧いた。
また、日本レーヨン(今のユニチカ)に工場誘致の話を持ちかけ、羽咋に織機百五十台の工場を建設。工場は本社の専務が社長になり、為治は専務に就任、運営を任された。
伊豆開発
為治の次の事業は伊豆開発である。伊豆開発は東急電鉄の五島慶太と息子、昇が有名だが、為治もその一人である。
五島氏が昭和二十八年『伊豆観光開発構想』を計画する以前に、為治は「東京の奥座敷になる」と伊豆川奈で土地五万坪を買い、別荘地として開発、販売する事業を興した。開発した土地の分譲や建て売り別荘の販売は積水ハウスに委託。後に鉄道が為治の土地を通ることになり、五千坪が買収された。
昭和三十二年頃、日本は不況になり、撚糸業から撤退した彼は伊豆開発に専念して伊東に移り、やがて、貿易商になっていた次男統介の東京事務所に不動産部を置き、鎌倉に住んだ。
長男正介も四高、東大を経て三井物産東京本社勤務になり、それぞれ結婚。為治一家が関東周辺に集まり、為治はご機嫌だった。
五島氏が昭和二十八年『伊豆観光開発構想』を計画する以前に、為治は「東京の奥座敷になる」と伊豆川奈で土地五万坪を買い、別荘地として開発、販売する事業を興した。開発した土地の分譲や建て売り別荘の販売は積水ハウスに委託。後に鉄道が為治の土地を通ることになり、五千坪が買収された。
昭和三十二年頃、日本は不況になり、撚糸業から撤退した彼は伊豆開発に専念して伊東に移り、やがて、貿易商になっていた次男統介の東京事務所に不動産部を置き、鎌倉に住んだ。
長男正介も四高、東大を経て三井物産東京本社勤務になり、それぞれ結婚。為治一家が関東周辺に集まり、為治はご機嫌だった。
石川県教育文化財団設立
昭和四十四年、友人達の熱心な誘いで金沢市片町の家に戻った為治は「故郷の教育、文化のために、財産を寄付する」と言い、翌年、盛大な
式典を開催して『竹多教育文化財団』を発足させ、昭和四十八年『石川県教育文化財団』と名を改めた。
昭和五十五年十二月二十三日、為治死亡。ツヤ子は千葉に移り、片町の家と土地を処分した一億八千万円も、同財団に寄付した。
為治は美川町に共同基地の道路舗装や美川小学校に『竹多文庫』を置くなど協力。また、先祖の紺屋三郎兵衛が藤塚神社の神輿を寄贈した ので、金箔貼り替えや修復も引き受け、兄弟で寄贈した灯籠を常夜灯に復活させて電気代を賄う基金も寄付した。
為治は美川町に共同基地の道路舗装や美川小学校に『竹多文庫』を置くなど協力。また、先祖の紺屋三郎兵衛が藤塚神社の神輿を寄贈した ので、金箔貼り替えや修復も引き受け、兄弟で寄贈した灯籠を常夜灯に復活させて電気代を賄う基金も寄付した。
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昭和五十五年十二月二十三日、為治死亡。ツヤ子は千葉に移り、片町の家と土地を処分した一億八千万円も、同財団に寄付した。
為治は美川町に共同基地の道路舗装や美川小学校に『竹多文庫』を置くなど協力。また、先祖の紺屋三郎兵衛が藤塚神社の神輿を寄贈した ので、金箔貼り替えや修復も引き受け、兄弟で寄贈した灯籠を常夜灯に復活させて電気代を賄う基金も寄付した。
為治は美川町に共同基地の道路舗装や美川小学校に『竹多文庫』を置くなど協力。また、先祖の紺屋三郎兵衛が藤塚神社の神輿を寄贈した ので、金箔貼り替えや修復も引き受け、兄弟で寄贈した灯籠を常夜灯に復活させて電気代を賄う基金も寄付した。